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漫画家石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』は3度TV放送されている。
第一作目は、あまりに原作と違うことから、石ノ森先生は「アニメに失望した」と書いているのを読んだ記憶がある。第2作目は(1979~1980)は、オンタイムで観てた。第3作目は、残念ながら観ることができまかった。
第2作目のTVシリーズは、基本的に1話完結だったような記憶がある。その009、島村ジョー役に新人声優の井上和彦氏が抜擢されたことが話題になっていたのを記憶している。
何よりも、石ノ森章太郎氏が主題歌の歌詞を書き、石ノ森氏の『サイボーグ009』に対する心情、「ヒーローとは何か」「正義とは何か」を描き、特にヒーローに対する孤独感や、悲しみがが強く反映していたように思う。その歌詞は:
吹きすさぶ風がよく似合う
9人の戦鬼と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
葬いの鐘がよく似合う
地獄の使者と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
闇追いはらう時の鐘
明日の夜明けをつげる鐘
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
「誰がために戦う?」というフレーズは今での耳に残っており、平和を守るべきヒーローの苦悩を表していたように思う。
特に日本のヒーローは本質的に苦労し、苦悩し、誰にも認められなくても、社会に貢献していたように思う。
反対に、多くのアメリカのヒーローのように、テレビ中継され、世界中の視聴者が見守る中、勝利を収め、全世界が救われ、ヒーローとしての存在を誇示してきたように思う。
もちろん例外もある。『スパイダーマン』も元は苦悩するヒーローであったし、映画『バットマン ザ•ダーク•ナイト(暗黒の騎士)』は、自らを悪者にすることで人々に希望を与える沈黙の守護神として描かれていた。
どちらも英雄、ヒーローに間違わない。それは、大人として理解できる。
3,11以降、世界、そして間違いなく日本は転換期を迎えた。多くの悲しみが閉塞感の中で、特に無責任な隠蔽体質の中で、みなが希望を失いかけている。
そう感じたとき『仮面ライダーフォーゼ』のメッセージは、昭和スタイルで時代遅れの如月弦太朗の底抜けに明るいスタイルは、少なくとも子供たちにメッセージを送っていたと思うし、『仮面ライダーウィザード』は「絶望を希望に変える」というメッセージは、ストレートに子供たちの心に届いているのではないかと思う。
しかしながら、これはあくまでも個人の意見だけれど、『フォーゼ』は月面宇宙を出してはいるが、それ以上でもなく、世界観はあくまで「学園もの」であり、『W』の風都(?)という街で起こったトラブルという世界観の小ささに共通するものであり、子供たちの想像力を侮っているように思う。それが、玩具売りだけのためのヒーローという印象を与える。
過去の仮面ライダーの特徴を集約させたような『ウィザード』に関しても、3.11が念頭にあることは理解しても、「絶望を希望に変える」というのは、ありとあらゆるすべてのヒーローの最低条件であり、劇中に「希望」「希望」と連呼しても、空しい響きに聞こえてならない。映像的に未完成の3DCGもそれに拍車をかけている。
その空しい響きは「指輪の魔法使い」に現れていると思う。スーパー戦隊の『マジレンジャー』で、現代の現実逃避的なファンタジーコンテンツの流れの中で、既にファンタジーの「魔法」というモチーフは使われているし、結局「魔法」の世界観においは、「何でもあり」と同義語ではないかと思う。それなのに『ウィザード』は「魔法の杖」を用いず指輪を使うが、銃という飛び道具(銃を使い出してスーパー戦隊と区別がつかなくなった)を使うのはなぜか、刀を利用するのはなぜか、つまりキックやパンチは使わず魔法VS魔法で戦わないのか不思議でならない。ここで言う「魔法」の定義が分からない。
さらに言えば、『仮面ライダー』が「仮面ライダー」と名乗らないライダーもいるが、他の平成ライダーもそうだけれど『ウィザード』のフォームチェンジを観ていると、仮面ライダーと名乗らないならば、スーパー戦隊との差別化をどのように意識しているのか、伝わってこない。逆に「レッドバスター」のバイクシーンを観ると、彼が「仮面ライダー」だと名乗っても良い気がする。
それぞれの怪人(?)のデザインを観ても、少なからず違いはあるにせよ、基本的デザインの方向性は同じように見えてしまう。旧1号を観れば「クモ男」や「コウモリ男」などシンプルだけど、印象深い怪人がいた。それらは継承されているけれど、「シャドームーン」以降、印象深い首領や好敵手は出てきていないし、偽ライダーもない。ライダー以上の敵の存在があってこそ、ライダーを応援したくなるのではないだろうか?
そのような意味で「ウルトラマン•シリーズ」では魅力ある怪獣がいかに多いことか。ある意味それらの「怪獣」自体が主役ではなかったかとも思う。とう私も幼少期に「怪獣博士」で怪獣の名前を多く暗記していた一人です。
私はライダーが嫌いではないし、反対に一番のあこがれでもある。ライダーこそ「正義」の体現者だと思っている。だからこそ、今ここで、『仮面ライダー』の原作者である石ノ森章太郎先生の考える「ヒーローとは何か」「正義とは何か」に立ち戻っても良いのではないかと思う。
余談ですが、アクマイザー3や、イナズマンが登場する次の劇場版の中で、『マッドマックス2』に出てきた武装トラックに対して、ライダーのライダーたるゆえんであるバイク•アクション•シーンを期待してます。
第一作目は、あまりに原作と違うことから、石ノ森先生は「アニメに失望した」と書いているのを読んだ記憶がある。第2作目は(1979~1980)は、オンタイムで観てた。第3作目は、残念ながら観ることができまかった。
第2作目のTVシリーズは、基本的に1話完結だったような記憶がある。その009、島村ジョー役に新人声優の井上和彦氏が抜擢されたことが話題になっていたのを記憶している。
何よりも、石ノ森章太郎氏が主題歌の歌詞を書き、石ノ森氏の『サイボーグ009』に対する心情、「ヒーローとは何か」「正義とは何か」を描き、特にヒーローに対する孤独感や、悲しみがが強く反映していたように思う。その歌詞は:
吹きすさぶ風がよく似合う
9人の戦鬼と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
葬いの鐘がよく似合う
地獄の使者と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
闇追いはらう時の鐘
明日の夜明けをつげる鐘
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
「誰がために戦う?」というフレーズは今での耳に残っており、平和を守るべきヒーローの苦悩を表していたように思う。
特に日本のヒーローは本質的に苦労し、苦悩し、誰にも認められなくても、社会に貢献していたように思う。
反対に、多くのアメリカのヒーローのように、テレビ中継され、世界中の視聴者が見守る中、勝利を収め、全世界が救われ、ヒーローとしての存在を誇示してきたように思う。
もちろん例外もある。『スパイダーマン』も元は苦悩するヒーローであったし、映画『バットマン ザ•ダーク•ナイト(暗黒の騎士)』は、自らを悪者にすることで人々に希望を与える沈黙の守護神として描かれていた。
どちらも英雄、ヒーローに間違わない。それは、大人として理解できる。
3,11以降、世界、そして間違いなく日本は転換期を迎えた。多くの悲しみが閉塞感の中で、特に無責任な隠蔽体質の中で、みなが希望を失いかけている。
そう感じたとき『仮面ライダーフォーゼ』のメッセージは、昭和スタイルで時代遅れの如月弦太朗の底抜けに明るいスタイルは、少なくとも子供たちにメッセージを送っていたと思うし、『仮面ライダーウィザード』は「絶望を希望に変える」というメッセージは、ストレートに子供たちの心に届いているのではないかと思う。
しかしながら、これはあくまでも個人の意見だけれど、『フォーゼ』は月面宇宙を出してはいるが、それ以上でもなく、世界観はあくまで「学園もの」であり、『W』の風都(?)という街で起こったトラブルという世界観の小ささに共通するものであり、子供たちの想像力を侮っているように思う。それが、玩具売りだけのためのヒーローという印象を与える。
過去の仮面ライダーの特徴を集約させたような『ウィザード』に関しても、3.11が念頭にあることは理解しても、「絶望を希望に変える」というのは、ありとあらゆるすべてのヒーローの最低条件であり、劇中に「希望」「希望」と連呼しても、空しい響きに聞こえてならない。映像的に未完成の3DCGもそれに拍車をかけている。
その空しい響きは「指輪の魔法使い」に現れていると思う。スーパー戦隊の『マジレンジャー』で、現代の現実逃避的なファンタジーコンテンツの流れの中で、既にファンタジーの「魔法」というモチーフは使われているし、結局「魔法」の世界観においは、「何でもあり」と同義語ではないかと思う。それなのに『ウィザード』は「魔法の杖」を用いず指輪を使うが、銃という飛び道具(銃を使い出してスーパー戦隊と区別がつかなくなった)を使うのはなぜか、刀を利用するのはなぜか、つまりキックやパンチは使わず魔法VS魔法で戦わないのか不思議でならない。ここで言う「魔法」の定義が分からない。
さらに言えば、『仮面ライダー』が「仮面ライダー」と名乗らないライダーもいるが、他の平成ライダーもそうだけれど『ウィザード』のフォームチェンジを観ていると、仮面ライダーと名乗らないならば、スーパー戦隊との差別化をどのように意識しているのか、伝わってこない。逆に「レッドバスター」のバイクシーンを観ると、彼が「仮面ライダー」だと名乗っても良い気がする。
それぞれの怪人(?)のデザインを観ても、少なからず違いはあるにせよ、基本的デザインの方向性は同じように見えてしまう。旧1号を観れば「クモ男」や「コウモリ男」などシンプルだけど、印象深い怪人がいた。それらは継承されているけれど、「シャドームーン」以降、印象深い首領や好敵手は出てきていないし、偽ライダーもない。ライダー以上の敵の存在があってこそ、ライダーを応援したくなるのではないだろうか?
そのような意味で「ウルトラマン•シリーズ」では魅力ある怪獣がいかに多いことか。ある意味それらの「怪獣」自体が主役ではなかったかとも思う。とう私も幼少期に「怪獣博士」で怪獣の名前を多く暗記していた一人です。
私はライダーが嫌いではないし、反対に一番のあこがれでもある。ライダーこそ「正義」の体現者だと思っている。だからこそ、今ここで、『仮面ライダー』の原作者である石ノ森章太郎先生の考える「ヒーローとは何か」「正義とは何か」に立ち戻っても良いのではないかと思う。
余談ですが、アクマイザー3や、イナズマンが登場する次の劇場版の中で、『マッドマックス2』に出てきた武装トラックに対して、ライダーのライダーたるゆえんであるバイク•アクション•シーンを期待してます。
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