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庵野秀明監督は、『新劇場版:破』において、完成度の高い新展開を見せてくれた。裏コマンド「ビースト」には脅かされたし、TVシリーズよりもより人間らしくなったレイに共感を覚えた。マリの出現は更なる展開を期待するものであったと思う。そして初号機とレイの融合によるサード•インバクトの始まりと、カヲルによるその阻止。サード•インバクトの始まりの初号機の形相は、私に『デビルマン』を彷彿させた。
そして、変わらぬ細密な『新劇場版:Q』の出現は、庵野監督の進化を観るようで、新たなエヴァが始動したと確信するものだった。ただしあくまで、完結編につながるものとして、「急(Q)」というよりも、「転」のような内容であると思う。
新しいエヴァのキーワードは、
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そして、変わらぬ細密な『新劇場版:Q』の出現は、庵野監督の進化を観るようで、新たなエヴァが始動したと確信するものだった。ただしあくまで、完結編につながるものとして、「急(Q)」というよりも、「転」のような内容であると思う。
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以前、萬画家故石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』の「天使編」、「神々との戦い編」は、シリーズの完結編として構想されながらも、未完に終わった遺作だと、私は書きました。そして、神山健治監督の『009 RE: CYBORG』についても書きました。そこで着目したのは、「神とは何か」でした。
再度この件に付いて検証しようと思います。
石ノ森先生の「天使編」において、もちろんその名の通り「天使」が登場します。これは西洋的キリスト教的思想における「天使」(日本にも天女や飛天など仏教的な天使がいますが…)です。同じく石ノ森先生の「神々との戦い編」における「神々」とは一神教の神ではなく、神道のような自然崇拝における「神々」を指しているように思います。
ここで疑問が浮かびます。「なぜ石ノ森先生は『神』とは言わず『神々』としたのでしょうか?」さらに言えば、石ノ森先生は神を絶対的な存在とせずに相対的な存在として扱ったのでしょうか。これは「…との戦い」と言う言葉や、「サイボーグvs神々」という設定で、神を相対化しているのは間違いありません。なぜそうしたのか。そのような壮大なスケールをもとに『サイボーグ009』を締めくくろうとした事は、驚異に値します。そして、それが完結せずに先生が亡くなられた事は誠に残念ですし、最終的には結論を出せずにいたのではないかと想像します。
同じ疑問、つまり「なぜ神を相対化したのか」と、神山監督の『009 RE: CYBORG』に問うと、彼は「彼の声」=「神」という図式において「神」を相対化しているように見えますが、結局、「神」は人間が無意識下において、高度に進化した人間の脳が作り出したもの、という設定で、無難(?)にその存在を落とし込んでいます。これは、石ノ森先生の原作を飛躍させずに、エンターテイメントにまとめあげた一つの成果だと判断したいと思います。つまり、神山監督は、ある意味「神」という概念の自分自身の思想を出していないのではないかと思うし、確信犯的に自らの思想を出さずに一つの作品として昇天(?)さしているのではないかと思います。
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再度この件に付いて検証しようと思います。
石ノ森先生の「天使編」において、もちろんその名の通り「天使」が登場します。これは西洋的キリスト教的思想における「天使」(日本にも天女や飛天など仏教的な天使がいますが…)です。同じく石ノ森先生の「神々との戦い編」における「神々」とは一神教の神ではなく、神道のような自然崇拝における「神々」を指しているように思います。
ここで疑問が浮かびます。「なぜ石ノ森先生は『神』とは言わず『神々』としたのでしょうか?」さらに言えば、石ノ森先生は神を絶対的な存在とせずに相対的な存在として扱ったのでしょうか。これは「…との戦い」と言う言葉や、「サイボーグvs神々」という設定で、神を相対化しているのは間違いありません。なぜそうしたのか。そのような壮大なスケールをもとに『サイボーグ009』を締めくくろうとした事は、驚異に値します。そして、それが完結せずに先生が亡くなられた事は誠に残念ですし、最終的には結論を出せずにいたのではないかと想像します。
同じ疑問、つまり「なぜ神を相対化したのか」と、神山監督の『009 RE: CYBORG』に問うと、彼は「彼の声」=「神」という図式において「神」を相対化しているように見えますが、結局、「神」は人間が無意識下において、高度に進化した人間の脳が作り出したもの、という設定で、無難(?)にその存在を落とし込んでいます。これは、石ノ森先生の原作を飛躍させずに、エンターテイメントにまとめあげた一つの成果だと判断したいと思います。つまり、神山監督は、ある意味「神」という概念の自分自身の思想を出していないのではないかと思うし、確信犯的に自らの思想を出さずに一つの作品として昇天(?)さしているのではないかと思います。
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漫画家石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』は3度TV放送されている。
第一作目は、あまりに原作と違うことから、石ノ森先生は「アニメに失望した」と書いているのを読んだ記憶がある。第2作目は(1979~1980)は、オンタイムで観てた。第3作目は、残念ながら観ることができまかった。
第2作目のTVシリーズは、基本的に1話完結だったような記憶がある。その009、島村ジョー役に新人声優の井上和彦氏が抜擢されたことが話題になっていたのを記憶している。
何よりも、石ノ森章太郎氏が主題歌の歌詞を書き、石ノ森氏の『サイボーグ009』に対する心情、「ヒーローとは何か」「正義とは何か」を描き、特にヒーローに対する孤独感や、悲しみがが強く反映していたように思う。その歌詞は:
吹きすさぶ風がよく似合う
9人の戦鬼と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
葬いの鐘がよく似合う
地獄の使者と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
闇追いはらう時の鐘
明日の夜明けをつげる鐘
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
「誰がために戦う?」というフレーズは今での耳に残っており、平和を守るべきヒーローの苦悩を表していたように思う。
特に日本のヒーローは本質的に苦労し、苦悩し、誰にも認められなくても、社会に貢献していたように思う。
反対に、多くのアメリカのヒーローのように、テレビ中継され、世界中の視聴者が見守る中、勝利を収め、全世界が救われ、ヒーローとしての存在を誇示してきたように思う。
もちろん例外もある。『スパイダーマン』も元は苦悩するヒーローであったし、映画『バットマン ザ•ダーク•ナイト(暗黒の騎士)』は、自らを悪者にすることで人々に希望を与える沈黙の守護神として描かれていた。
どちらも英雄、ヒーローに間違わない。それは、大人として理解できる。
3,11以降、世界、そして間違いなく日本は転換期を迎えた。多くの悲しみが閉塞感の中で、特に無責任な隠蔽体質の中で、みなが希望を失いかけている。
そう感じたとき『仮面ライダーフォーゼ』のメッセージは、昭和スタイルで時代遅れの如月弦太朗の底抜けに明るいスタイルは、少なくとも子供たちにメッセージを送っていたと思うし、『仮面ライダーウィザード』は「絶望を希望に変える」というメッセージは、ストレートに子供たちの心に届いているのではないかと思う。
しかしながら、これはあくまでも個人の意見だけれど、『フォーゼ』は月面宇宙を出してはいるが、それ以上でもなく、世界観はあくまで「学園もの」であり、『W』の風都(?)という街で起こったトラブルという世界観の小ささに共通するものであり、子供たちの想像力を侮っているように思う。それが、玩具売りだけのためのヒーローという印象を与える。
過去の仮面ライダーの特徴を集約させたような『ウィザード』に関しても、3.11が念頭にあることは理解しても、「絶望を希望に変える」というのは、ありとあらゆるすべてのヒーローの最低条件であり、劇中に「希望」「希望」と連呼しても、空しい響きに聞こえてならない。映像的に未完成の3DCGもそれに拍車をかけている。
その空しい響きは「指輪の魔法使い」に現れていると思う。スーパー戦隊の『マジレンジャー』で、現代の現実逃避的なファンタジーコンテンツの流れの中で、既にファンタジーの「魔法」というモチーフは使われているし、結局「魔法」の世界観においは、「何でもあり」と同義語ではないかと思う。それなのに『ウィザード』は「魔法の杖」を用いず指輪を使うが、銃という飛び道具(銃を使い出してスーパー戦隊と区別がつかなくなった)を使うのはなぜか、刀を利用するのはなぜか、つまりキックやパンチは使わず魔法VS魔法で戦わないのか不思議でならない。ここで言う「魔法」の定義が分からない。
さらに言えば、『仮面ライダー』が「仮面ライダー」と名乗らないライダーもいるが、他の平成ライダーもそうだけれど『ウィザード』のフォームチェンジを観ていると、仮面ライダーと名乗らないならば、スーパー戦隊との差別化をどのように意識しているのか、伝わってこない。逆に「レッドバスター」のバイクシーンを観ると、彼が「仮面ライダー」だと名乗っても良い気がする。
それぞれの怪人(?)のデザインを観ても、少なからず違いはあるにせよ、基本的デザインの方向性は同じように見えてしまう。旧1号を観れば「クモ男」や「コウモリ男」などシンプルだけど、印象深い怪人がいた。それらは継承されているけれど、「シャドームーン」以降、印象深い首領や好敵手は出てきていないし、偽ライダーもない。ライダー以上の敵の存在があってこそ、ライダーを応援したくなるのではないだろうか?
そのような意味で「ウルトラマン•シリーズ」では魅力ある怪獣がいかに多いことか。ある意味それらの「怪獣」自体が主役ではなかったかとも思う。とう私も幼少期に「怪獣博士」で怪獣の名前を多く暗記していた一人です。
私はライダーが嫌いではないし、反対に一番のあこがれでもある。ライダーこそ「正義」の体現者だと思っている。だからこそ、今ここで、『仮面ライダー』の原作者である石ノ森章太郎先生の考える「ヒーローとは何か」「正義とは何か」に立ち戻っても良いのではないかと思う。
余談ですが、アクマイザー3や、イナズマンが登場する次の劇場版の中で、『マッドマックス2』に出てきた武装トラックに対して、ライダーのライダーたるゆえんであるバイク•アクション•シーンを期待してます。
第一作目は、あまりに原作と違うことから、石ノ森先生は「アニメに失望した」と書いているのを読んだ記憶がある。第2作目は(1979~1980)は、オンタイムで観てた。第3作目は、残念ながら観ることができまかった。
第2作目のTVシリーズは、基本的に1話完結だったような記憶がある。その009、島村ジョー役に新人声優の井上和彦氏が抜擢されたことが話題になっていたのを記憶している。
何よりも、石ノ森章太郎氏が主題歌の歌詞を書き、石ノ森氏の『サイボーグ009』に対する心情、「ヒーローとは何か」「正義とは何か」を描き、特にヒーローに対する孤独感や、悲しみがが強く反映していたように思う。その歌詞は:
吹きすさぶ風がよく似合う
9人の戦鬼と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
葬いの鐘がよく似合う
地獄の使者と人のいう
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
闇追いはらう時の鐘
明日の夜明けをつげる鐘
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
だが我々は愛のため
戦い忘れた人のため
涙で渡る血の大河
夢見て走る死の荒野
サイボーグ戦士 誰がために戦う
サイボーグ戦士 誰がために戦う
「誰がために戦う?」というフレーズは今での耳に残っており、平和を守るべきヒーローの苦悩を表していたように思う。
特に日本のヒーローは本質的に苦労し、苦悩し、誰にも認められなくても、社会に貢献していたように思う。
反対に、多くのアメリカのヒーローのように、テレビ中継され、世界中の視聴者が見守る中、勝利を収め、全世界が救われ、ヒーローとしての存在を誇示してきたように思う。
もちろん例外もある。『スパイダーマン』も元は苦悩するヒーローであったし、映画『バットマン ザ•ダーク•ナイト(暗黒の騎士)』は、自らを悪者にすることで人々に希望を与える沈黙の守護神として描かれていた。
どちらも英雄、ヒーローに間違わない。それは、大人として理解できる。
3,11以降、世界、そして間違いなく日本は転換期を迎えた。多くの悲しみが閉塞感の中で、特に無責任な隠蔽体質の中で、みなが希望を失いかけている。
そう感じたとき『仮面ライダーフォーゼ』のメッセージは、昭和スタイルで時代遅れの如月弦太朗の底抜けに明るいスタイルは、少なくとも子供たちにメッセージを送っていたと思うし、『仮面ライダーウィザード』は「絶望を希望に変える」というメッセージは、ストレートに子供たちの心に届いているのではないかと思う。
しかしながら、これはあくまでも個人の意見だけれど、『フォーゼ』は月面宇宙を出してはいるが、それ以上でもなく、世界観はあくまで「学園もの」であり、『W』の風都(?)という街で起こったトラブルという世界観の小ささに共通するものであり、子供たちの想像力を侮っているように思う。それが、玩具売りだけのためのヒーローという印象を与える。
過去の仮面ライダーの特徴を集約させたような『ウィザード』に関しても、3.11が念頭にあることは理解しても、「絶望を希望に変える」というのは、ありとあらゆるすべてのヒーローの最低条件であり、劇中に「希望」「希望」と連呼しても、空しい響きに聞こえてならない。映像的に未完成の3DCGもそれに拍車をかけている。
その空しい響きは「指輪の魔法使い」に現れていると思う。スーパー戦隊の『マジレンジャー』で、現代の現実逃避的なファンタジーコンテンツの流れの中で、既にファンタジーの「魔法」というモチーフは使われているし、結局「魔法」の世界観においは、「何でもあり」と同義語ではないかと思う。それなのに『ウィザード』は「魔法の杖」を用いず指輪を使うが、銃という飛び道具(銃を使い出してスーパー戦隊と区別がつかなくなった)を使うのはなぜか、刀を利用するのはなぜか、つまりキックやパンチは使わず魔法VS魔法で戦わないのか不思議でならない。ここで言う「魔法」の定義が分からない。
さらに言えば、『仮面ライダー』が「仮面ライダー」と名乗らないライダーもいるが、他の平成ライダーもそうだけれど『ウィザード』のフォームチェンジを観ていると、仮面ライダーと名乗らないならば、スーパー戦隊との差別化をどのように意識しているのか、伝わってこない。逆に「レッドバスター」のバイクシーンを観ると、彼が「仮面ライダー」だと名乗っても良い気がする。
それぞれの怪人(?)のデザインを観ても、少なからず違いはあるにせよ、基本的デザインの方向性は同じように見えてしまう。旧1号を観れば「クモ男」や「コウモリ男」などシンプルだけど、印象深い怪人がいた。それらは継承されているけれど、「シャドームーン」以降、印象深い首領や好敵手は出てきていないし、偽ライダーもない。ライダー以上の敵の存在があってこそ、ライダーを応援したくなるのではないだろうか?
そのような意味で「ウルトラマン•シリーズ」では魅力ある怪獣がいかに多いことか。ある意味それらの「怪獣」自体が主役ではなかったかとも思う。とう私も幼少期に「怪獣博士」で怪獣の名前を多く暗記していた一人です。
私はライダーが嫌いではないし、反対に一番のあこがれでもある。ライダーこそ「正義」の体現者だと思っている。だからこそ、今ここで、『仮面ライダー』の原作者である石ノ森章太郎先生の考える「ヒーローとは何か」「正義とは何か」に立ち戻っても良いのではないかと思う。
余談ですが、アクマイザー3や、イナズマンが登場する次の劇場版の中で、『マッドマックス2』に出てきた武装トラックに対して、ライダーのライダーたるゆえんであるバイク•アクション•シーンを期待してます。
リュック•ベッソン監督のSFアクション映画『ロックアウト』の予告編を観た。
『フィフス•エレメント』とから数えてSF作品は15年ぶりとのことだそうだ。
個人的には、彼の15年前の作品を見たとき、SFには向いていない監督だと思ったことが記憶に残っている。
世界一、礼儀知らずのエージェント「スノー」が選ばれて、宇宙に浮かぶ監獄から大統領の娘を救出する物語だそうだ。おそらく3DCGの特撮は金をかけているのではないかと想像してます。
設定を読んで、過去の映画が頭をよぎった。
それは、『ニューヨーク1997』、原題は Escape from New Yorkです。これは、B級映画の奇才ジョン•カーペンター監督の作品で、元特殊部隊のスネーク•プリスキン(俳優カート•ラッセル)が、マンハッタン島刑務所にテロリストに墜落させられた大統領を助けるために、単身潜入させて救出する映画だった。とにかく、スネークの個性が強く、新しいダークヒーローの誕生にB級ファンやカーペンター監督ファンが熱狂したのを覚えている。続編は、Escape from L.A.で、「スネーク•イズ•バック」というキャッチで、B級ファンを熱くした。
映画『ロックアウト』はその宇宙編だろう。リュック•ベッソン監督が、B級映画のジョン•カーペンター監督を超えられるか、楽しみにしてる。
『フィフス•エレメント』とから数えてSF作品は15年ぶりとのことだそうだ。
個人的には、彼の15年前の作品を見たとき、SFには向いていない監督だと思ったことが記憶に残っている。
世界一、礼儀知らずのエージェント「スノー」が選ばれて、宇宙に浮かぶ監獄から大統領の娘を救出する物語だそうだ。おそらく3DCGの特撮は金をかけているのではないかと想像してます。
設定を読んで、過去の映画が頭をよぎった。
それは、『ニューヨーク1997』、原題は Escape from New Yorkです。これは、B級映画の奇才ジョン•カーペンター監督の作品で、元特殊部隊のスネーク•プリスキン(俳優カート•ラッセル)が、マンハッタン島刑務所にテロリストに墜落させられた大統領を助けるために、単身潜入させて救出する映画だった。とにかく、スネークの個性が強く、新しいダークヒーローの誕生にB級ファンやカーペンター監督ファンが熱狂したのを覚えている。続編は、Escape from L.A.で、「スネーク•イズ•バック」というキャッチで、B級ファンを熱くした。
映画『ロックアウト』はその宇宙編だろう。リュック•ベッソン監督が、B級映画のジョン•カーペンター監督を超えられるか、楽しみにしてる。
漫画家石ノ森章太郎先生が最後に描いていたのが「神々との戦い」編であったことは、以前に書きました。そして、神山健治監督が『009 RE: CYBORG』を完成させたことも書きました。それについて再び書きたいと思います。
神山健治氏が監督した劇場版『009 RE: CYBORG』において、彼は大きな発明をしました。それは「神」とは何かという答えです。
「ある種の脳の働きによって生み出されたものではないか、と思いはじめた」と神山監督は言います。
さらに続けて、「神というのは物理的な存在ではなく、人間が生み出した概念ではあるけれども、それは「意識下」で発明されたというよりは、脳の働きが無意識下で見せたものではないか。すると、神そのものは誰しもの脳の中に偏在することになる。ただ、それと対話したり、遭遇したりできる人は、例えば修行を積んだ僧侶だったり、殉教者だったり…その状態で脳細胞を活性化できる一部の人だけかな、と。」
彼が言う「神そのものは誰しもの脳の中に偏在することになる」ということには確かにあり得るかもしれないが、「脳」とは何か、さらに「魂」とは何かという問いに答えなければならないと思います。しかし、誰しもに「神」が偏在することには異論はないし、フィクションの中の「神」というイデアとしては十分な説明ができていると思うのです。形而上学的なものをロジックで説明しており、それは神山監督でないと出来ないものであり、そこまでアニメというフィクションの媒体で明確に「神」を語ったのは彼が初めてではないかと思います。
その「神」をさらに確信的に語っています。「じゃあ、物理的事象はいったいなぜ起きるのか。脳内のイメージだけなら、現実にそれは起きないはず。それは、「神」を見たといっている人間が自ら起こしているんじゃないか。世界中に残るオーパーツや遺跡も含め、確かにそれらを残した人々は神を見ていた。ただし、脳の中で…。」
その発言には、石ノ森先生が原作の最終編で出してきたUFOやオーパーツや「ムー」的なものを除いて、より万人に理解しやすいロジックで「神」を語ろうとしているのがよくわかりますし、賛同できます。
彼曰く「人間の愚かな行動を観察し、文明を幾度も滅ぼし、繰り返しリセットをかけてきた聖典や伝説の中に”神”とは、つまり人間自身が無意識にその行為を繰り返しきたことを理想的に正当化するための象徴的存在だったのではないかと。
一方で、人間は自分たちの理想とする神に近づこうとするのだけれども、己の業の深さや生物的構造などが足かせとなって、結局はその領域に辿り着けない。そもそも、その理想像は自分たちの頭の中から生まれてきたにもかかわらず。だけど、その理想に向かおうとする行為自体は崇高であり、それは石ノ森先生が描こうとした「善とは何か」「正義とは何か」というテーマにもつながってくるんじゃないか。今回の『009』では、いわゆる宗教的観点とは違ったかたちで、現在までに観察された物質的事象のみに基づいて人間が「神」を解き明かし、神と人間との良好な関係性を描き、なおかつ神と戦ったゼロゼロナンバーたちの話しとしても完結することができたんじゃないか、と。」
ここでは、彼が「神」という言葉を出した時点で、十分宗教的な側面だ出されていると思うけれど、「神」と戦うヒーローに「神とは何か」「善とは何か」「意識とはにか」、また石ノ森先生が生涯描き続けた「正義とは何か」という問いかけは、「神」vs「サイボーグ•ヒーロー」という図式でエンターテイメントなストーリーを形成せざるを得なかったことは、ある種残念であるけれど、十分映画として成り立つと言えるのではないでしょうか…。
神山健治監督の「神」の概念は私のものとは違うけれど、石ノ森先生のテーマに一つの答えを見いだした業績は尊敬に値します。押井守監督の「天使の化石」で神の存在を証明するガジェットとして使用し、「脳内」に存在する神を「彼の声」として表現し、加速装置のために脳をチューンナップしてるジョーにも聞こえるが、その声に敗北しなかったフランソワーズが神に近い存在としてジョーの傍らにいたことは、ジョーにとって幸いであったのではないかと思います。最後に「神」に対峙する(自分の脳に語りかけるシーンへとつながっていく)結末は、フランソワーズとジェット無しでは考えられなかったと思います。
石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』の『地下帝国"ヨミ"編』で敵対する「ブラックゴースト」が「お前たちはどんなに敵を倒してもムダだ。ブラックゴーストは人間の心が生み出したものだから。自分たちを滅ぼすには、地球上の人間の全てを滅ばさなくてはいけないのだ」これがそのまま今回の作品の根幹になっているのでしょう。実際、ジョーは始めに「彼の声」にしたがって、テロを起こそうとします。
最終場面で、ジョーが神に対して語りかけています。神山健治監督の論理で言えば、それはジョーが自分の脳に語りかけているけれど、どこにもいない神に語りかけている場面があります。その映像はあくまでジョーに外的に存在する神に対して語りかけているように見えますが、これはあくまで映画としての手法として表現しているのであって、あくまで自分の脳に語りかけているという面では、見るものに誤解を生む危険性もあったと思います。けれど、ジョーはあくまで、一人でそれに対峙するのです。
世界の誰もが見ていないところで、そして誰にも喝采を得られることなく、ただ一人の「正義」を守る者として、問いかけます。
ジョーは最終場面で「神」に語る「確かに人間は愚かな存在だ。個人が寄り集まると抗いようのない集団無意識によっていともたらすく堕落する。けれど、人間ひとりひとりは不完全であるが故に、予期しない驚きと新しい発見、そして無限の可能性を秘めている。だからこそ素晴らしいんだ。あなたはそのことに気づき、あなたの問いかけに答え、命がけでこの世界を救おうとした者たちの想いを踏みにじるのか。それでも人類を滅ぼすのか。答えてもらいたい。」と…。
それは「Stand Alon Complex」=「人間」という結論を導いた神山監督の思想からの続きであり、009島村ジョーの「神」への問いは、彼が行き着いた一つの結論です。それは「神」を語ることは、「人間とは何か」を追求せねばならないことだと思うからです。
劇中において、「彼の声」=「神」に従って人類をやり直さなければならにという設定は、人類が地球を「がん細胞」ごとく、破滅に追いやり、なおかつ「がん細胞」自身も終焉をもたらす存在に似ています。しかし、ジョーは決して人類のありように失望していないのです。神が存在するとか、しないとかと問題は、既に関係ないのです。人類を信じているがために、誰にも喝采を受けることは無いけれど、自分の信じるものに突き進んでいく姿こそ、ヒーローが持つべき「正義」ではないでしょうか。それは、「人類への愛」ではなく、「人類への確信」といったようなものでしょうか。
確かに、それぞれの立場に「正義」はあるだろうけれど、神山監督は「正義」を体現するヒーローの条件にも言及しているので、それにつても後に再度検討してみたいと思います。
エンターテイメントとして、究極的な命題である「神とは何か」を描いていしまった神山健治監督は次はどこへ進むのでしょうか。今後の活躍に期待しています。
神山健治氏が監督した劇場版『009 RE: CYBORG』において、彼は大きな発明をしました。それは「神」とは何かという答えです。
「ある種の脳の働きによって生み出されたものではないか、と思いはじめた」と神山監督は言います。
さらに続けて、「神というのは物理的な存在ではなく、人間が生み出した概念ではあるけれども、それは「意識下」で発明されたというよりは、脳の働きが無意識下で見せたものではないか。すると、神そのものは誰しもの脳の中に偏在することになる。ただ、それと対話したり、遭遇したりできる人は、例えば修行を積んだ僧侶だったり、殉教者だったり…その状態で脳細胞を活性化できる一部の人だけかな、と。」
彼が言う「神そのものは誰しもの脳の中に偏在することになる」ということには確かにあり得るかもしれないが、「脳」とは何か、さらに「魂」とは何かという問いに答えなければならないと思います。しかし、誰しもに「神」が偏在することには異論はないし、フィクションの中の「神」というイデアとしては十分な説明ができていると思うのです。形而上学的なものをロジックで説明しており、それは神山監督でないと出来ないものであり、そこまでアニメというフィクションの媒体で明確に「神」を語ったのは彼が初めてではないかと思います。
その「神」をさらに確信的に語っています。「じゃあ、物理的事象はいったいなぜ起きるのか。脳内のイメージだけなら、現実にそれは起きないはず。それは、「神」を見たといっている人間が自ら起こしているんじゃないか。世界中に残るオーパーツや遺跡も含め、確かにそれらを残した人々は神を見ていた。ただし、脳の中で…。」
その発言には、石ノ森先生が原作の最終編で出してきたUFOやオーパーツや「ムー」的なものを除いて、より万人に理解しやすいロジックで「神」を語ろうとしているのがよくわかりますし、賛同できます。
彼曰く「人間の愚かな行動を観察し、文明を幾度も滅ぼし、繰り返しリセットをかけてきた聖典や伝説の中に”神”とは、つまり人間自身が無意識にその行為を繰り返しきたことを理想的に正当化するための象徴的存在だったのではないかと。
一方で、人間は自分たちの理想とする神に近づこうとするのだけれども、己の業の深さや生物的構造などが足かせとなって、結局はその領域に辿り着けない。そもそも、その理想像は自分たちの頭の中から生まれてきたにもかかわらず。だけど、その理想に向かおうとする行為自体は崇高であり、それは石ノ森先生が描こうとした「善とは何か」「正義とは何か」というテーマにもつながってくるんじゃないか。今回の『009』では、いわゆる宗教的観点とは違ったかたちで、現在までに観察された物質的事象のみに基づいて人間が「神」を解き明かし、神と人間との良好な関係性を描き、なおかつ神と戦ったゼロゼロナンバーたちの話しとしても完結することができたんじゃないか、と。」
ここでは、彼が「神」という言葉を出した時点で、十分宗教的な側面だ出されていると思うけれど、「神」と戦うヒーローに「神とは何か」「善とは何か」「意識とはにか」、また石ノ森先生が生涯描き続けた「正義とは何か」という問いかけは、「神」vs「サイボーグ•ヒーロー」という図式でエンターテイメントなストーリーを形成せざるを得なかったことは、ある種残念であるけれど、十分映画として成り立つと言えるのではないでしょうか…。
神山健治監督の「神」の概念は私のものとは違うけれど、石ノ森先生のテーマに一つの答えを見いだした業績は尊敬に値します。押井守監督の「天使の化石」で神の存在を証明するガジェットとして使用し、「脳内」に存在する神を「彼の声」として表現し、加速装置のために脳をチューンナップしてるジョーにも聞こえるが、その声に敗北しなかったフランソワーズが神に近い存在としてジョーの傍らにいたことは、ジョーにとって幸いであったのではないかと思います。最後に「神」に対峙する(自分の脳に語りかけるシーンへとつながっていく)結末は、フランソワーズとジェット無しでは考えられなかったと思います。
石ノ森章太郎先生の『サイボーグ009』の『地下帝国"ヨミ"編』で敵対する「ブラックゴースト」が「お前たちはどんなに敵を倒してもムダだ。ブラックゴーストは人間の心が生み出したものだから。自分たちを滅ぼすには、地球上の人間の全てを滅ばさなくてはいけないのだ」これがそのまま今回の作品の根幹になっているのでしょう。実際、ジョーは始めに「彼の声」にしたがって、テロを起こそうとします。
最終場面で、ジョーが神に対して語りかけています。神山健治監督の論理で言えば、それはジョーが自分の脳に語りかけているけれど、どこにもいない神に語りかけている場面があります。その映像はあくまでジョーに外的に存在する神に対して語りかけているように見えますが、これはあくまで映画としての手法として表現しているのであって、あくまで自分の脳に語りかけているという面では、見るものに誤解を生む危険性もあったと思います。けれど、ジョーはあくまで、一人でそれに対峙するのです。
世界の誰もが見ていないところで、そして誰にも喝采を得られることなく、ただ一人の「正義」を守る者として、問いかけます。
ジョーは最終場面で「神」に語る「確かに人間は愚かな存在だ。個人が寄り集まると抗いようのない集団無意識によっていともたらすく堕落する。けれど、人間ひとりひとりは不完全であるが故に、予期しない驚きと新しい発見、そして無限の可能性を秘めている。だからこそ素晴らしいんだ。あなたはそのことに気づき、あなたの問いかけに答え、命がけでこの世界を救おうとした者たちの想いを踏みにじるのか。それでも人類を滅ぼすのか。答えてもらいたい。」と…。
それは「Stand Alon Complex」=「人間」という結論を導いた神山監督の思想からの続きであり、009島村ジョーの「神」への問いは、彼が行き着いた一つの結論です。それは「神」を語ることは、「人間とは何か」を追求せねばならないことだと思うからです。
劇中において、「彼の声」=「神」に従って人類をやり直さなければならにという設定は、人類が地球を「がん細胞」ごとく、破滅に追いやり、なおかつ「がん細胞」自身も終焉をもたらす存在に似ています。しかし、ジョーは決して人類のありように失望していないのです。神が存在するとか、しないとかと問題は、既に関係ないのです。人類を信じているがために、誰にも喝采を受けることは無いけれど、自分の信じるものに突き進んでいく姿こそ、ヒーローが持つべき「正義」ではないでしょうか。それは、「人類への愛」ではなく、「人類への確信」といったようなものでしょうか。
確かに、それぞれの立場に「正義」はあるだろうけれど、神山監督は「正義」を体現するヒーローの条件にも言及しているので、それにつても後に再度検討してみたいと思います。
エンターテイメントとして、究極的な命題である「神とは何か」を描いていしまった神山健治監督は次はどこへ進むのでしょうか。今後の活躍に期待しています。