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今まで、『バットマン ザ•ダーク•ナイトを観て』、『バットマン•ビギンズを再度鑑賞』で、「ヒーローとは何か」「正義とは何か」を私なりに検証してきました。
では、日本では、特に「アニメ」ではこの問題について、どのように扱われて来たのでしょうか?
以前書いたように萬画家石ノ森章太郎先生が、漫画の中で「正義とは、ヒーローとは何か」を追求していまが、「アニメ」ではどうでしょう?石ノ森先生のTV版『サイボーグ009』では基本的に一話完結で、勧善懲悪の世界に徹していて、原作とは少し異なった印象でした。それはそれで面白かったという記憶があるのですが、真のヒーローとは何かというレベルには達してなかったと記憶しています。
そこで取り上げたいのが、富野喜幸(よしゆき 現 由悠季)氏です。言わずと知れた『機動戦士ガンダム』の生みの親です。ここでは、主に『海のトリトン』、『ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』を取り上げたいと思います。
(下のつづきを押して下さい。)
では、日本では、特に「アニメ」ではこの問題について、どのように扱われて来たのでしょうか?
以前書いたように萬画家石ノ森章太郎先生が、漫画の中で「正義とは、ヒーローとは何か」を追求していまが、「アニメ」ではどうでしょう?石ノ森先生のTV版『サイボーグ009』では基本的に一話完結で、勧善懲悪の世界に徹していて、原作とは少し異なった印象でした。それはそれで面白かったという記憶があるのですが、真のヒーローとは何かというレベルには達してなかったと記憶しています。
そこで取り上げたいのが、富野喜幸(よしゆき 現 由悠季)氏です。言わずと知れた『機動戦士ガンダム』の生みの親です。ここでは、主に『海のトリトン』、『ザンボット3』、『無敵鋼人ダイターン3』を取り上げたいと思います。
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まず『海のトリトン』ですが、原作が手塚治虫先生で、1972年にTV放送されたものです。「トリトン族」の生き残りで13歳の少年。赤子の時に猪の首岬の洞窟に置き去りにされ、和也(アニメでは漁師の一平)に拾われて育てられます。イルカの「ルカー」の 話によって自らの出生を知り、村に「ポセイドン」の被害が及ぶことを恐れ、村を捨て自ら海へと旅立つ。アニメでは髪が緑色。原作ではナイフ投げの名人で、アニ メ版と比べると最初から精神的に大人です。第32章では最後の決着をつけるべく大型ミサイルの中へポセイドンを閉じ込め宇宙へ放って追放し、自らも運命 を共にした。
トリトンの横顔がかっこ良く、よくトリトンの落書きをしたものです。また、ア二メブームの先駆けで、女性ファンも多く、ファンクラブも初めて作られました。
もともとは手塚プロダクションがアニメ化する予定でしたが、経営悪化で、後の代表作『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展氏が権利を取得して、テレビアニメ発プロデューション作品です。制作の経緯に問題があっため、手塚先生は秋田書店版の単行本のカバー袖のコメントで「テレビまんがのトリトンは自分のつくったものではない」、講談社の手塚治虫漫画全集のあとがきで「自分は原作者の立場でしかない」と読者に断っています。
つまりTV版『海のトリトン』は、手塚先生にものではなく、富野監督の作品と言っていいでしょう。その上、富野監督の初作品です。そのラストに我々は仰天し、呆然とし、否応無く「正義」の二文字に疑問符が飛び交いました。富野監督自身が、職権乱用でしたと語っています。
苦難の旅の果て、ポセイドン族の本拠地へのりこんだトリトンは衝撃の真実を知る。ポセイドン族はアトランティス人によってポセイドンの神像の人身御供として捧げられた人々の生き残りであり、トリトン族は彼らに滅ぼされたアトランティス人がポセイドン族に復讐するための武器であるオリハルコンの短剣を託すために生み出した新人種だった。ポセイドン族がトリトン族を殺戮してきたのは、自らの身を護るためだった。結局、トリトン族が悪であり、ポセンドン族が善という、善悪逆転のラストが衝撃的で、言葉を失った事を覚えている。今まで観てきたのは何だったのか、と…。正義が正義ではなく、悪が正義であったという結末は、子供にとって理解を超えたヒーロー像でした。現実の世界に近く、ヒーローは絶対的ではないのだと、視点の違いで悪にもなるのだと…。
『ザンボット3』ではどう表現されていたのでしょうか?
『ザンボット3』は、名古屋テレビの制作で、「三機合体のロボット」と「サンライズのロボット」という特徴を有していた作品でした。
この作品は、謎の宇宙人ガイゾックに母星を滅ぼされ、地球に移住したビアル星人の生き残りの子孫、神(じん)ファミリー。ついに地球へとその魔の手を伸ばしてきたガイゾックに対し、彼らは先祖伝来の発掘兵器である宇宙船キングビアルや巨大ロボットザンボット3で立ち向かう。戦乱の荒野と化した日本で、主人公の子供たち、勝平たちの苦難に満ちた戦いでした。私の記憶が間違っていなければん、この作品から、毎週壊された街を次の週には完全に復元されていた従来の街の風景が、この作品から、街が壊されたままであるという、今までにないリアルな設定になっていたはずです。途中参加した富野監督の「周囲に被害を与えてしまう主人公」、「市民に迫害される主人公」といった設定がされ、誤解されながらも、戸惑いながら戦う主人公達が描かれていました。
戦火と荒廃の中での日常生活、戦闘シーンでのリアルな心理(特に戦闘に臨むことの恐さ)、ショッキングな人間の殺し方と初期から出演のサブキャラクターが犠牲者になる展開、主人公たちが周囲から非難の的になる、等の現実的な設定と演出がありました。そして、ガイゾックはガイゾック星人により作られたコ ンピュータで、平和のためにビアル星人を含む悪意に満ちた生物を滅ぼすことを目的とし、危険な地球人を平和のために滅ぼすため飛来したという事実がガイ ゾックによって語られ、従来の単純な公式「勧善懲悪」に疑問を投げかけるものでした。
終盤で、主要キャラクターが次々と死亡する展開は、富野由悠季監督の異名「皆殺しの富野」の原点の一つとして有名な作品です。『機動戦士ガンダム』でさえも、「シャー」を殺そうとして、プロデューサーに止められた逸話があります。そして、キャラクタ―デザインは、『機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインを努めた「安彦良和」氏が行ない、戦闘服デザインは、彼が初めて小説の挿絵を手がけ、一部ではライトノベルの開拓者とも言われている「高千穂遙」氏の『クラッシャージョウ』シリーズの挿絵での万能服『クラッシャージャケット」のデザインの元になっています。そして、有名になったのが、原画マンとして参加していたか「金田伊功」氏の存在が大きく、「金田パース」や「金田光り」といった独自の演出を、多くのアニメファンに認知させることとなりました。
第22話で、ガイザクの将軍である「キラー•ザ•ブッチャー」が最後に、主人公神勝平(じん かっぺい)に問いただす。「お前達は、一体何のためにわしと戦ったのだ?」神が答える「何のため?そりゃ地球を守るために決まっているじゃないか!」「一体誰がそんな事を頼んだのだ?」「誰も頼みやしない!」「お前の身内は戦いのたびに次々と死んでいった。…地球を守ると言って…。どこの誰がありがたかってくれるたんだ!誰が地球で感謝している?誰が喜んでくれるんだ?!」「地球は俺が生まれ育ったとこなんだ。誰にもあきらめさせないぞ!」「ムダな事を…!地球はいずれにせよ滅びる運命にあるのだ!滅びる運命に…」と言いながら、消滅していきました。
その後、ガイザックの首領が真実を述べる。「我はガイナック星人によって造られたコンピュータードール第8号にすぎない。」「ただのコンピューター?」「そうだ!悪い考えを持った生き物に反応するように造られている。かつて、お前達の先祖の星「ビアル星を悪い考えが満ち満ちていた故に、滅ぼせど、勝して、我、200年の平和な眠りにつけど、だが、再び悪い考えに満ちあふれた星が、我の平和な眠りを目覚めさせたのだ。その星にお前達がいた」「地球の人間がみな悪い人だと言うのか?」「憎しみ合い、嘘の付き合い、わがままな考え、まして仲間同士が殺し合うような生き物を掃除するためにガイゾックによって造られた!」「そんな事はない。みんないい人ばかりだ。「最後に聞きたい。」「我がシステムは破壊されすぎた。なぜ、我らに戦いを挑んだ?なぜ?!」「俺達の地球だ!守るためだ」「地球の生き物が頼んだのか?」「俺達の地球だ!守らなけりゃいけないんだ!」「自分の地位のためだけに頼んだのか?」「違う!」「神勝平…。本当に家族や友人を殺してまで守る必要があったのか?悪のような地球の生き物がお前達に感謝してくれているのか?悪意のある地球の生き物がお前達に感謝してくれるのか?地球という星が、そのようなやさしさを…」「何を…!」「お前達は勝利者となった。お前達をやさしく迎えてくれる地球の生き物がいるはずもない。お前達をやさしく迎えにいてくれる地球の生き物が、いるはずがない!!」「こいつ…」「悪意に満ちた地球に、お前達の行動を分かってくれる生き物が、一匹でもいるというのか…?!」
最終的にここでも善悪転換が行なわれている。これは悪に満ちた人類への警告であり、『009 RE: CYBORG』で観た、「彼の声」と同種の思想であり、萬画家石ノ森先生の問いに共通するものです。
同じく富野由悠季監督の作品で、『ザンボット3』の後に作られた『無敵鋼人ダイターン3』という作品があります。
この作品は、『ザンボット3』と違って、主人公は「破嵐万丈(はらんばんじょう)」というスーパーカーに乗る大人がダイターンを操縦します。当初の企画では、「ロボットアニメに仮面ライダー的なアクション要素が加わったTVアニメで、それに加え、当時有名であった『ビューティー•ペア』的な女の子2人が活躍する」ものでした。そして、「始めに商品ができて、それから番組が創られた」ものであり、『ザンボット3』に比べ関連おもちゃが充実し、いろいろな販売活動も強化され、『ザンボット3』の150%の売り上げを達成しました。『ザンボット3』と本作の2連続の成功は、次回作『機動戦士ガンダム』でクリエイター側に高い自由度をもたらしたのです。そして、「ハロ」「ホワイトベース」「マゼラン」などダイターン3のための設定が一部ガンダムに転用されました。
この作品は、ギャグやパロディの比重が多く、一部を除き基本的にはコミカルで、エンターテイメント性を盛り込んだものでした。また『スター•ウォーズ』の影響も大きく、実際にオープニングでライトセイバーを使用しています。また金田伊攻氏も影響をうけ、宇宙戦艦機の戦闘シーンで鋭く描写され、「動画マンは、線がメチャクチャ増えていると嘆いた」と言われています。
ストーリーは、火星開拓作業のためにサイボーグとなった者達が、自らを「メガノイド」と呼び、人類に対して反乱を起こすというものです。メガノイドを生み出してしまった破嵐創造博士の息子である破嵐万丈が、元来はメガボーグ(メガノイドの戦闘ロボット)の試作品であったものを奪取して、メガノイドの人類支配阻止のために戦いました。
最後の場面で、メガノイドのボス「ドンザウサー」の妻であり、戦闘指揮官である「コロス」に涙をながせながらドンザウサーに、富野監督は言わしめます。「破嵐万丈にダイターンを奪われた事。これほどまでに私たちを悩ますと思いませんでした。おっしゃていましたね、あなた…。メガノイドの力があれば、人類は地球以外の星に進出していけると…。そうなれば、地球上で人間が殺し合ったり、戦いを起こす事が無くなり、人類は永遠に平和になると…。それなのに破嵐万丈…。なぜメガノイドの原型サイボーグを開発したあの破嵐創造の子供があなたの夢を壊そうとするの…?あなた、ご自分の夢をお話しになったわね…」と人類を支配しようとしたメガノイド側の正義が語られます。これもまた、悪に満ちた人類への警告の鐘がならされます。
これまでに述べたように、富野由悠季監督作品では、バットマンの『ダーク•ナイト』シリーズで、正義を追求したクリストファー•ノーラン監督の先を行っていたような気がします。おそらく、神山健治監督の上記の作品のどれかを観ていたのではないでしょうか。後の富野監督の作品「機動戦士ガンダム」においては、対峙し合う「アムロ」の側にも「シャア」の側にも、両方に自らの正義を有していました。
人が確固たる信念で何かをしようとした時、またはどうしようもない危機的状況で、止むに止まれぬ理由で事を起こそうとした時、人は皆、良い意味でも、悪い意味でも「狂気」となります。それは、「(キリスト教的?)愛」を元にした行動でも同じです。中道から逸脱してしまいます。他の人が傷つかないうちは良いのですが、何かが生じたとき、もしくは生じるとき、国内外の歴史を観ても、現代でも、弱者が傷ついてしまう人が多くいます。そして、「狂気」を有した者は、その「狂気」によって滅びます。
「正義」とは、人の道になって正しい事であり、正しい意義です。また人間の社会行動の評価基準であり、模範となるものですが、今まで観てきたように、この相対的な世界で、絶対的なものはなく、時代や文化、宗教、国家という概念、社会体制によって「正しさ」や「行動基準•模範」は異なります。「どちらが正義か?」は、視点によて変わるのです。「勝てば官軍」とは良く言ったものです。
それゆえ、もはやアニメや映画において、「戦闘もの」は、一方の人間側を「正義」として描けなくなりました。敵は、世界征服を狙う邪悪な者(人間以外)、悪魔、ロボットやアンドロイド、ゾンビや多種多様な怪物、宇宙人といった当たり障りのないものになりました。少なくとも「国」対「国」の争いは無くなり、対「テロ」が描かれる程度になりました。でもその紛争にも「絶対的正義」はなく、残念ながら人類同士の「正義」対「正義」の争いは、「悪」(「悪」という概念が意味ある場合。仏教では少し違うと思う。それを言うなら、「正義と悪」という概念自体が西洋的ではあるけれど…)に他ならないのです。「勧善懲悪の世界」は、人類間からは生まれないのです。
「正義」を考える時、「最大多数の最大幸福」という考えがあります。それは功利主義です。そこには大きな間違いがあり、価値基準が単一で、量を考え、質を考慮していません。一律の尺度は存在しないのです。この多様化の時代において…。少数派は削除されてしまいます。「正義を正当化するものとは何か?」という問いに答えていないのです。
「正義とは何か?」を命題にしたのが『機動戦士ガンダム00』でした。24世紀になっても戦争を続けていて、一つになれない人類に対して、平和な世界をもたらし、人類が一つになる(という大義の)ために、ガンダムを有する私設武装組織「ソレスタルビーイング」が、あらゆる紛争に介入し、争っている両者を「駆逐」、つまり武力によって傷つけ、根絶するのです。そこには「正義」はなく、「戦争を無くすために武力を行使する」という存在自体が矛盾している組織を描いています。人類から観れば、その存在は生存を脅かす「悪」でしかなく、あえて「悪」の汚名を着て、ガンダムマイスター達は人類に変革をもたらすというものです。そこには以前のようなガンダムシリーズにおける「主役の戦う事への悩みはなく」、確固たる信念を持って、命をかけて世界を変革へと導くのです。『機動戦士ガンダムSEED』以降、美形キャがそろい、女性ファンが増え、「ガンダム」も共通言語として定着してきました。
さらに言えば、その「ソレスタルビーイング」の存在のあり方は、以前『バットマン•ビギンズを再度鑑賞』クリスタファー•ノーラン監督の『バットマン ビギンズ』で登場するラーズ•アル•グール率いる「影の同盟」の思想、つまり世界のバランスを保つために、「腐敗していく人類をリブート(再起動)」する考えと同類のものです。武力により「真の正義を守るため、悪を憎む者同士」が世界を恐怖におとしめるのです。ノーラン監督はそれを正当化せず、『バットマン』が選んだ戦い方は、自らが「恐怖と化す」イバラの道でした。
それらの「人類をリブート」させるという思想は、一人のクリエーターが創作した思想ではなく、現代の人類がおかれている境遇に関して、多くの人が潜在的に感じている共感性から出たもものように感じます。私たちは、人類の未来に関して、「大いなる変革」を期待し共有している「理念」のではないでしょうか?
極めつけは、アニメ『エウレカセブンAO』において、現代の世界システムの問題として端的に言い表しています。『「善と悪」がなければ、世界は動かなない』と…。
また、長い文章になってしまった、簡単にまとめようとすると勝手に思考が暴走し、手が止まらなくなる。自己の思考が止まらない。長く付き合わせて大変申し訳ございません。どうかお許しを!最後まで読んでくれてありがとう。
トリトンの横顔がかっこ良く、よくトリトンの落書きをしたものです。また、ア二メブームの先駆けで、女性ファンも多く、ファンクラブも初めて作られました。
もともとは手塚プロダクションがアニメ化する予定でしたが、経営悪化で、後の代表作『宇宙戦艦ヤマト』の西崎義展氏が権利を取得して、テレビアニメ発プロデューション作品です。制作の経緯に問題があっため、手塚先生は秋田書店版の単行本のカバー袖のコメントで「テレビまんがのトリトンは自分のつくったものではない」、講談社の手塚治虫漫画全集のあとがきで「自分は原作者の立場でしかない」と読者に断っています。
つまりTV版『海のトリトン』は、手塚先生にものではなく、富野監督の作品と言っていいでしょう。その上、富野監督の初作品です。そのラストに我々は仰天し、呆然とし、否応無く「正義」の二文字に疑問符が飛び交いました。富野監督自身が、職権乱用でしたと語っています。
苦難の旅の果て、ポセイドン族の本拠地へのりこんだトリトンは衝撃の真実を知る。ポセイドン族はアトランティス人によってポセイドンの神像の人身御供として捧げられた人々の生き残りであり、トリトン族は彼らに滅ぼされたアトランティス人がポセイドン族に復讐するための武器であるオリハルコンの短剣を託すために生み出した新人種だった。ポセイドン族がトリトン族を殺戮してきたのは、自らの身を護るためだった。結局、トリトン族が悪であり、ポセンドン族が善という、善悪逆転のラストが衝撃的で、言葉を失った事を覚えている。今まで観てきたのは何だったのか、と…。正義が正義ではなく、悪が正義であったという結末は、子供にとって理解を超えたヒーロー像でした。現実の世界に近く、ヒーローは絶対的ではないのだと、視点の違いで悪にもなるのだと…。
『ザンボット3』ではどう表現されていたのでしょうか?
『ザンボット3』は、名古屋テレビの制作で、「三機合体のロボット」と「サンライズのロボット」という特徴を有していた作品でした。
この作品は、謎の宇宙人ガイゾックに母星を滅ぼされ、地球に移住したビアル星人の生き残りの子孫、神(じん)ファミリー。ついに地球へとその魔の手を伸ばしてきたガイゾックに対し、彼らは先祖伝来の発掘兵器である宇宙船キングビアルや巨大ロボットザンボット3で立ち向かう。戦乱の荒野と化した日本で、主人公の子供たち、勝平たちの苦難に満ちた戦いでした。私の記憶が間違っていなければん、この作品から、毎週壊された街を次の週には完全に復元されていた従来の街の風景が、この作品から、街が壊されたままであるという、今までにないリアルな設定になっていたはずです。途中参加した富野監督の「周囲に被害を与えてしまう主人公」、「市民に迫害される主人公」といった設定がされ、誤解されながらも、戸惑いながら戦う主人公達が描かれていました。
戦火と荒廃の中での日常生活、戦闘シーンでのリアルな心理(特に戦闘に臨むことの恐さ)、ショッキングな人間の殺し方と初期から出演のサブキャラクターが犠牲者になる展開、主人公たちが周囲から非難の的になる、等の現実的な設定と演出がありました。そして、ガイゾックはガイゾック星人により作られたコ ンピュータで、平和のためにビアル星人を含む悪意に満ちた生物を滅ぼすことを目的とし、危険な地球人を平和のために滅ぼすため飛来したという事実がガイ ゾックによって語られ、従来の単純な公式「勧善懲悪」に疑問を投げかけるものでした。
終盤で、主要キャラクターが次々と死亡する展開は、富野由悠季監督の異名「皆殺しの富野」の原点の一つとして有名な作品です。『機動戦士ガンダム』でさえも、「シャー」を殺そうとして、プロデューサーに止められた逸話があります。そして、キャラクタ―デザインは、『機動戦士ガンダム」のキャラクターデザインを努めた「安彦良和」氏が行ない、戦闘服デザインは、彼が初めて小説の挿絵を手がけ、一部ではライトノベルの開拓者とも言われている「高千穂遙」氏の『クラッシャージョウ』シリーズの挿絵での万能服『クラッシャージャケット」のデザインの元になっています。そして、有名になったのが、原画マンとして参加していたか「金田伊功」氏の存在が大きく、「金田パース」や「金田光り」といった独自の演出を、多くのアニメファンに認知させることとなりました。
第22話で、ガイザクの将軍である「キラー•ザ•ブッチャー」が最後に、主人公神勝平(じん かっぺい)に問いただす。「お前達は、一体何のためにわしと戦ったのだ?」神が答える「何のため?そりゃ地球を守るために決まっているじゃないか!」「一体誰がそんな事を頼んだのだ?」「誰も頼みやしない!」「お前の身内は戦いのたびに次々と死んでいった。…地球を守ると言って…。どこの誰がありがたかってくれるたんだ!誰が地球で感謝している?誰が喜んでくれるんだ?!」「地球は俺が生まれ育ったとこなんだ。誰にもあきらめさせないぞ!」「ムダな事を…!地球はいずれにせよ滅びる運命にあるのだ!滅びる運命に…」と言いながら、消滅していきました。
その後、ガイザックの首領が真実を述べる。「我はガイナック星人によって造られたコンピュータードール第8号にすぎない。」「ただのコンピューター?」「そうだ!悪い考えを持った生き物に反応するように造られている。かつて、お前達の先祖の星「ビアル星を悪い考えが満ち満ちていた故に、滅ぼせど、勝して、我、200年の平和な眠りにつけど、だが、再び悪い考えに満ちあふれた星が、我の平和な眠りを目覚めさせたのだ。その星にお前達がいた」「地球の人間がみな悪い人だと言うのか?」「憎しみ合い、嘘の付き合い、わがままな考え、まして仲間同士が殺し合うような生き物を掃除するためにガイゾックによって造られた!」「そんな事はない。みんないい人ばかりだ。「最後に聞きたい。」「我がシステムは破壊されすぎた。なぜ、我らに戦いを挑んだ?なぜ?!」「俺達の地球だ!守るためだ」「地球の生き物が頼んだのか?」「俺達の地球だ!守らなけりゃいけないんだ!」「自分の地位のためだけに頼んだのか?」「違う!」「神勝平…。本当に家族や友人を殺してまで守る必要があったのか?悪のような地球の生き物がお前達に感謝してくれているのか?悪意のある地球の生き物がお前達に感謝してくれるのか?地球という星が、そのようなやさしさを…」「何を…!」「お前達は勝利者となった。お前達をやさしく迎えてくれる地球の生き物がいるはずもない。お前達をやさしく迎えにいてくれる地球の生き物が、いるはずがない!!」「こいつ…」「悪意に満ちた地球に、お前達の行動を分かってくれる生き物が、一匹でもいるというのか…?!」
最終的にここでも善悪転換が行なわれている。これは悪に満ちた人類への警告であり、『009 RE: CYBORG』で観た、「彼の声」と同種の思想であり、萬画家石ノ森先生の問いに共通するものです。
同じく富野由悠季監督の作品で、『ザンボット3』の後に作られた『無敵鋼人ダイターン3』という作品があります。
この作品は、『ザンボット3』と違って、主人公は「破嵐万丈(はらんばんじょう)」というスーパーカーに乗る大人がダイターンを操縦します。当初の企画では、「ロボットアニメに仮面ライダー的なアクション要素が加わったTVアニメで、それに加え、当時有名であった『ビューティー•ペア』的な女の子2人が活躍する」ものでした。そして、「始めに商品ができて、それから番組が創られた」ものであり、『ザンボット3』に比べ関連おもちゃが充実し、いろいろな販売活動も強化され、『ザンボット3』の150%の売り上げを達成しました。『ザンボット3』と本作の2連続の成功は、次回作『機動戦士ガンダム』でクリエイター側に高い自由度をもたらしたのです。そして、「ハロ」「ホワイトベース」「マゼラン」などダイターン3のための設定が一部ガンダムに転用されました。
この作品は、ギャグやパロディの比重が多く、一部を除き基本的にはコミカルで、エンターテイメント性を盛り込んだものでした。また『スター•ウォーズ』の影響も大きく、実際にオープニングでライトセイバーを使用しています。また金田伊攻氏も影響をうけ、宇宙戦艦機の戦闘シーンで鋭く描写され、「動画マンは、線がメチャクチャ増えていると嘆いた」と言われています。
ストーリーは、火星開拓作業のためにサイボーグとなった者達が、自らを「メガノイド」と呼び、人類に対して反乱を起こすというものです。メガノイドを生み出してしまった破嵐創造博士の息子である破嵐万丈が、元来はメガボーグ(メガノイドの戦闘ロボット)の試作品であったものを奪取して、メガノイドの人類支配阻止のために戦いました。
最後の場面で、メガノイドのボス「ドンザウサー」の妻であり、戦闘指揮官である「コロス」に涙をながせながらドンザウサーに、富野監督は言わしめます。「破嵐万丈にダイターンを奪われた事。これほどまでに私たちを悩ますと思いませんでした。おっしゃていましたね、あなた…。メガノイドの力があれば、人類は地球以外の星に進出していけると…。そうなれば、地球上で人間が殺し合ったり、戦いを起こす事が無くなり、人類は永遠に平和になると…。それなのに破嵐万丈…。なぜメガノイドの原型サイボーグを開発したあの破嵐創造の子供があなたの夢を壊そうとするの…?あなた、ご自分の夢をお話しになったわね…」と人類を支配しようとしたメガノイド側の正義が語られます。これもまた、悪に満ちた人類への警告の鐘がならされます。
これまでに述べたように、富野由悠季監督作品では、バットマンの『ダーク•ナイト』シリーズで、正義を追求したクリストファー•ノーラン監督の先を行っていたような気がします。おそらく、神山健治監督の上記の作品のどれかを観ていたのではないでしょうか。後の富野監督の作品「機動戦士ガンダム」においては、対峙し合う「アムロ」の側にも「シャア」の側にも、両方に自らの正義を有していました。
人が確固たる信念で何かをしようとした時、またはどうしようもない危機的状況で、止むに止まれぬ理由で事を起こそうとした時、人は皆、良い意味でも、悪い意味でも「狂気」となります。それは、「(キリスト教的?)愛」を元にした行動でも同じです。中道から逸脱してしまいます。他の人が傷つかないうちは良いのですが、何かが生じたとき、もしくは生じるとき、国内外の歴史を観ても、現代でも、弱者が傷ついてしまう人が多くいます。そして、「狂気」を有した者は、その「狂気」によって滅びます。
「正義」とは、人の道になって正しい事であり、正しい意義です。また人間の社会行動の評価基準であり、模範となるものですが、今まで観てきたように、この相対的な世界で、絶対的なものはなく、時代や文化、宗教、国家という概念、社会体制によって「正しさ」や「行動基準•模範」は異なります。「どちらが正義か?」は、視点によて変わるのです。「勝てば官軍」とは良く言ったものです。
それゆえ、もはやアニメや映画において、「戦闘もの」は、一方の人間側を「正義」として描けなくなりました。敵は、世界征服を狙う邪悪な者(人間以外)、悪魔、ロボットやアンドロイド、ゾンビや多種多様な怪物、宇宙人といった当たり障りのないものになりました。少なくとも「国」対「国」の争いは無くなり、対「テロ」が描かれる程度になりました。でもその紛争にも「絶対的正義」はなく、残念ながら人類同士の「正義」対「正義」の争いは、「悪」(「悪」という概念が意味ある場合。仏教では少し違うと思う。それを言うなら、「正義と悪」という概念自体が西洋的ではあるけれど…)に他ならないのです。「勧善懲悪の世界」は、人類間からは生まれないのです。
「正義」を考える時、「最大多数の最大幸福」という考えがあります。それは功利主義です。そこには大きな間違いがあり、価値基準が単一で、量を考え、質を考慮していません。一律の尺度は存在しないのです。この多様化の時代において…。少数派は削除されてしまいます。「正義を正当化するものとは何か?」という問いに答えていないのです。
「正義とは何か?」を命題にしたのが『機動戦士ガンダム00』でした。24世紀になっても戦争を続けていて、一つになれない人類に対して、平和な世界をもたらし、人類が一つになる(という大義の)ために、ガンダムを有する私設武装組織「ソレスタルビーイング」が、あらゆる紛争に介入し、争っている両者を「駆逐」、つまり武力によって傷つけ、根絶するのです。そこには「正義」はなく、「戦争を無くすために武力を行使する」という存在自体が矛盾している組織を描いています。人類から観れば、その存在は生存を脅かす「悪」でしかなく、あえて「悪」の汚名を着て、ガンダムマイスター達は人類に変革をもたらすというものです。そこには以前のようなガンダムシリーズにおける「主役の戦う事への悩みはなく」、確固たる信念を持って、命をかけて世界を変革へと導くのです。『機動戦士ガンダムSEED』以降、美形キャがそろい、女性ファンが増え、「ガンダム」も共通言語として定着してきました。
さらに言えば、その「ソレスタルビーイング」の存在のあり方は、以前『バットマン•ビギンズを再度鑑賞』クリスタファー•ノーラン監督の『バットマン ビギンズ』で登場するラーズ•アル•グール率いる「影の同盟」の思想、つまり世界のバランスを保つために、「腐敗していく人類をリブート(再起動)」する考えと同類のものです。武力により「真の正義を守るため、悪を憎む者同士」が世界を恐怖におとしめるのです。ノーラン監督はそれを正当化せず、『バットマン』が選んだ戦い方は、自らが「恐怖と化す」イバラの道でした。
それらの「人類をリブート」させるという思想は、一人のクリエーターが創作した思想ではなく、現代の人類がおかれている境遇に関して、多くの人が潜在的に感じている共感性から出たもものように感じます。私たちは、人類の未来に関して、「大いなる変革」を期待し共有している「理念」のではないでしょうか?
極めつけは、アニメ『エウレカセブンAO』において、現代の世界システムの問題として端的に言い表しています。『「善と悪」がなければ、世界は動かなない』と…。
また、長い文章になってしまった、簡単にまとめようとすると勝手に思考が暴走し、手が止まらなくなる。自己の思考が止まらない。長く付き合わせて大変申し訳ございません。どうかお許しを!最後まで読んでくれてありがとう。
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